幸福のパラドックス
昨日の日経朝刊の「やさしい経済学」は、
「幸福のパラドックス」
という内容だった。
多くの国では、戦後何十年間に亘って、
GDPが増え、生活水準が大幅に改善しているのに、
「主観的幸福感」の平均値(=生活満足度)はあまり変化していない。
つまり、単純にこのデータだけを見れば、
「物質的な豊かさは、結局人々に幸福をもたらさない」
ということになってしまい、
“全ての経済活動を否定するような過激な挑戦である”
と大阪大学の筒井教授が書いていた。
物質的な豊かさは、人々に幸福をもたらすか?
これは、本当に難しい問いで、
答えが出るような類の問いでは無いような気もする。
(単純に、「幸福=物質の量」という側面だけで、切り取ろうとするから、
おかしくなってしまう、という気もするが・・・)
でも、ドキュメンタリー番組で、
所得が低く、“物質的に”貧しいアフリカの村で、目をキラキラ輝かせて
サッカーに興じる子供達の映像などを目にすると、
果たして、日本で道端に座り込んで、
友達と無言で、DSをやっている
日本の小学生と、どちらが「幸せ」なのか?
わからくなる。
ちなみに、筒井教授は、他にも興味深いデータを紹介していて、
日本の10分の1ほどの所得しかないインドネシアの人の
主観的幸福感は、日本よりも上だそうだ。
また、ロシア、モルドバ、ジンバブエ・・・などなどの
政治的状況が悪い国では、幸福度が低いそうだ。
確かに、いくらお金をもっていたところで、
家族や友人が戦地に行くような社会だったら、
幸せどころの話では無い。
逆に、たとえ国際比較でお金(所得)が少なくても、
家族が幸せで、職場の仲間や友人が、
健康で和やかであれば、充分に幸せな状況だろう。
あとは、それを自分で「幸せ」と感じることができるかどうかだ。
結局のところ、「幸せかどうか」は、単純なお金の多寡ではなく、
そうした、外的環境と、内的環境を掛け合わせて、
最終的には、自分の心が決めるもの、なのだろう。
当たり前の日常を、幸せだと感じることができる、
そんな心を持つことが、自分を幸せにするのだろう。
決して、「物質的な豊かさ=幸せ」ではない。
「幸福のパラドックス」
という内容だった。
多くの国では、戦後何十年間に亘って、
GDPが増え、生活水準が大幅に改善しているのに、
「主観的幸福感」の平均値(=生活満足度)はあまり変化していない。
つまり、単純にこのデータだけを見れば、
「物質的な豊かさは、結局人々に幸福をもたらさない」
ということになってしまい、
“全ての経済活動を否定するような過激な挑戦である”
と大阪大学の筒井教授が書いていた。
物質的な豊かさは、人々に幸福をもたらすか?
これは、本当に難しい問いで、
答えが出るような類の問いでは無いような気もする。
(単純に、「幸福=物質の量」という側面だけで、切り取ろうとするから、
おかしくなってしまう、という気もするが・・・)
でも、ドキュメンタリー番組で、
所得が低く、“物質的に”貧しいアフリカの村で、目をキラキラ輝かせて
サッカーに興じる子供達の映像などを目にすると、
果たして、日本で道端に座り込んで、
友達と無言で、DSをやっている
日本の小学生と、どちらが「幸せ」なのか?
わからくなる。
ちなみに、筒井教授は、他にも興味深いデータを紹介していて、
日本の10分の1ほどの所得しかないインドネシアの人の
主観的幸福感は、日本よりも上だそうだ。
また、ロシア、モルドバ、ジンバブエ・・・などなどの
政治的状況が悪い国では、幸福度が低いそうだ。
確かに、いくらお金をもっていたところで、
家族や友人が戦地に行くような社会だったら、
幸せどころの話では無い。
逆に、たとえ国際比較でお金(所得)が少なくても、
家族が幸せで、職場の仲間や友人が、
健康で和やかであれば、充分に幸せな状況だろう。
あとは、それを自分で「幸せ」と感じることができるかどうかだ。
結局のところ、「幸せかどうか」は、単純なお金の多寡ではなく、
そうした、外的環境と、内的環境を掛け合わせて、
最終的には、自分の心が決めるもの、なのだろう。
当たり前の日常を、幸せだと感じることができる、
そんな心を持つことが、自分を幸せにするのだろう。
決して、「物質的な豊かさ=幸せ」ではない。
Posted at 2009年04月25日 20時33分57秒 [その他]
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